日本国憲法のもう一つの価値

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日本国憲法のもう一つの価値

 Today the guns are silent. A great tragedy has ended.
(今日、どこにも銃声はない。甚大な惨禍はここに終わった)

マッカーサー元帥の演説より

 

この文章は、1945年9月2日にアメリカの戦艦ミズーリ号において日本が降伏文章に調印したことを受けて世界に向けて発信されたマッカーサー元帥の演説の冒頭です。同年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことを受け、同日に正式な降伏のセレモニーが東京湾で行われたのです。

この日から、日本の戦後がはじまります。

マッカーサーはホイットニー准将を民政局 Government Section の責任者に任命して、日本の政治体制そのものを、軍事国家から民主主義国家へと変革してゆく作業に着手します。マッカーサーは、ミズーリ号での演説の中で、
“We are committed by the Potsdam Declaration of principles to see that the Japanese people are liberated from this condition of slavery. “
(我々はポツダム宣言によって誓約されたように、日本人を奴隷的な状態から解放する任務を負っている)
と説明します。そして、この原則に従って、早速日本政府を指導したのが、日本国憲法の発布への道筋だったのです。

この時点で、アメリカは来る冷戦への脅威を抱きながら、日本の速やかなる非武装、民主化へ強い意欲を示していました。その方針が朝鮮戦争の勃発前後から一部変化し、日本に自衛隊が成立し再軍備が行われたことは周知の事実です。

今、憲法第9条の解釈を巡って国が揺れています。戦争放棄を謳った9条について語るとき、マッカーサーの同演説での次のスピーチを忘れてはなりません。
“The energy of the Japanese race, if properly directed, will enable expansion vertically rather than horizontally. If the talents of the race are turned into constructive channels, the county can lift itself from its present deplorable state into a position of dignity.”
(もし、適切な指導がなされれば、日本民族のエネルギーは水平方向に拡大してゆくことなく、自らの中で垂直に拡大してゆけるようになるはずである。日本人の才能をこうした建設的な方向に注力すれば、彼らは現在の悲惨な状況から飛翔し、威厳を取り戻すことができるだろう)

海外への拡大することなく、自らを深化させるよう、日本を変革してゆくことをここで明解に述べたことが、平和憲法制定への起点となったのです。まさに、日本国憲法の発布は、9月2日から始まった一連の改革の集大成の一つでした。そして、この憲法は民政局の指導によって草案が何度も検討され、稀にみる民主憲法として採択されました。

このように、我々は日本国憲法の制定過程をみるとき、ともすればここまでの記述から、日本国憲法はアメリカの都合によって押し付けられた憲法であるとの疑念を持ちがちです。しかし、私はここにもう一つ忘れてはならない、この憲法の価値について解説します。

実は、面白いことに、日本国憲法の制定には、アメリカなどでなし得なかった理想を、そこに持ち込もうとした人々がいたことは、あまり知られていないのです。その結果、日本国憲法には、第9条以外にも民主主義の旗手を自認していたアメリカ合衆国の憲法にもない条文がいくつか含まれるようになりました。

代表的な事例が、家族の組成に関する男女の完全な平等を記した第24条の条文です。実は、この条文を憲法に挿入するように強く求めた人物が3年前に他界しています。ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)という、占領下の日本でGHQの民政局に勤めた22歳になったばかりの女性です。彼女が、この条文の必要性を強く主張したことが、24条などの作成に大きな影響を与えたのです。

ゴードン女史は、元々アメリカ人ではありません。彼女はウクライナ系ユダヤ人の両親のもと、ヨーロッパから日本に移住して、戦前に長期に渡って日本に滞在しており、日本語も堪能でした。その後、彼女は渡米してアメリカで高等教育を受けますが、そこで当時のアメリカにあった様々な女性差別に対して疑問を持ち、いわゆるフェミニスト運動を信奉します。それが日本国憲法の作成に男女平等の条項を加える動機になったのです。

ユダヤ系が故に、彼女の血縁の多くはナチス占領下のヨーロッパで死亡しています。日本の音楽界にも大きな影響を与えた著名なピアニストを父に持ち、一家は日本に多数の友人を持っていました。また、母親の教育で日本語を含む6カ国語を操る才媛として育った彼女は、戦後にその語学力を活かして、世界中の近代憲法を参照し、日本国憲法の草案を作成したのです。

彼女の配属された民政局の一室は、彼女に代表される学者など民間人で構成され、20代そこそこの女性がこうした作業に汗を流せるリベラルな環境があったのでした。そして、こうした人々の中には、占領政策や冷戦外交に神経を尖らすGHQなどの圧力や反対を押し切って、理想を目指した草案を盛り込んでいった人がいたのした。彼女もその一人でした。

敗戦国が民主的な憲法を制定した事例として有名なのが、第一次世界大戦後にドイツで制定されたワイマール憲法でした。しかし、この憲法に従い、ナチス党は合法的に議席を拡大したことを我々は忘れてはなりません。

ワイマール憲法が制定されたとき、その憲法下でわずか13年後にナチスが台頭することを予測できた人は誰もいなかったのです。未来は思わぬ所から惨禍を呼びます。ですから、その芽はどんな小さな、一見無関係に思えることでも、注意深摘み取ってゆかなければならないのです。

日本国憲法も敗戦によって産声をあげました。それは確かに占領下に制定された憲法です。とはいえ、占領下であるが故に諸外国でなし得なかった理想を自由に追求できた憲法といえます。それは歴史の皮肉ではあるものの、極めて幸運に制定された憲法であるともいえるのです。

1945年9月2日のマッカーサーの演説に始まり、アメリカでの体験を元に、アメリカよりも斬新な憲法の制定に取り組んだベアテ・シロタ・ゴードンのような、世界の知識や試みと日本人の知恵とが共同し、集約された貴重な憲法が、日本国憲法なのだという事実を、我々は再度認識しましょう。

そう、日本国憲法は、その成立の事情や背景はともかくも、世界ではじめて国際的な知恵によって制定された、世界史上も希有の憲法なのです。


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Yoji Yamakuse
山久瀬 洋二
1955年大分県生れ
大手出版社のニューヨーク駐在員を経て現地で起業。同地と東京を中心に100社近くに及ぶグローバル企業にて、国際環境での人事管理、人材開発などのコンサルティング活動を展開し、4000人以上のエグゼクティブへのコーチングを実施。著書は「日本人が誤解される100の言動」「言い返さない日本人」など多数。

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