ボルチモアでの暴動から見えること

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ボルチモアでの暴動から見えること

Rage to Relief in Baltimore as 6 Officers Charged in Death (ボルチモアは怒りから安堵へ、6人の警察官を殺人罪で告発)NY Times より

5月のはじめ、アメリカ東部のボルチモアは厳戒体制にありました。
警察官の不当な扱いと対応によって、黒人の被疑者が死亡した事件をめぐって、人種差別、人権侵害だと訴える人々の怒りが暴動へとエスカレート。騒然とした状況が続いていたのです。

去年の夏、セントルイスの郊外で白人の警察官が黒人少年を射殺した事件以来、こうした悲劇がアメリカ各地で頻繁におきています。
ネパールの地震や、安倍首相の訪米などのニュースに隠れがちなこのニュース、アメリカでは毎日新聞の一面を割いています。
そして、来年の大統領選挙を前に、こうした人種対立や、貧富の格差の問題が、現実の事件として多発している状況に、連邦政府もそれぞれの地域の人々も、ただ当惑を隠せないというのが実際の状況です。
では、こうした事件を報道するとき、日本人はそれをどのような視点でみればいいのでしょうか。アメリカには差別は存在するのでしょうか。そして偏見はそこまで深刻な社会問題なのでしょうか。

日本人として、アメリカでのおきる人種対立についてのニュースを解説するとき、私には必ず注意するポイントがあります。それは、こうした事件こそ、アメリカの社会と日本の社会との違いをしっかりと把握した上で解説しない限り、ニュースの本質が伝わらないと思うからです。

まず、確かにアメリカには人種間の対立もあれば、偏見もあります。
そこに格差社会の歪みが発火点となり、暴動や暴行事件という悲劇が頻発していることも事実です。
しかし、忘れてはならないことは、日本人に間にも、外国人への偏見や格差社会の歪みがあるというポイントです。よく、「アメリカ人はやはり有色人種を蔑んでいる」というステレオタイプな報道や解説がありますが、こうした事件をそのステレオタイプに直結させる安易なスタンスには警鐘を鳴らしたいのです。
アメリカは元々移民社会なので、多様性が日本とは比較にならないほど、社会の隅々まで浸透しているのです。事件は、そうした多様性の中でおきている悲劇なのです。

興味深いのは、今回事件をおこした警察官を裁く検察官も黒人系の人で、さらにその決定を不服として、検察官と対立する見解を発表した警察署の関係者も黒人系の人だったということです。
アメリカ社会でおきるこうした事件は「白人と黒人の対立」という単純な図式では測れません。もてる者ともたざる者という縦糸と、移民や宗教、人種、政治的背景といった横糸とが絡まり縺れて、こうした事件がおきているのです。
実際、今回ボルチモアでおきた被疑者の死亡事件に関わった警察官の内の3名は白人系、他の3名は黒人系だったのです。
さらに、この6名を裁くことになった、Marilyn MosbyというボルチモアのDistrict Attorney(地区検事-検察長官)が、極めて有能な黒人女性だということもここで解説しておきます。
彼女の祖父は黒人が警察官となった第一世代の警察官です。
それから半世紀以上経過した現在、彼女は主要都市の検察長官としては最も若い長官として脚光を浴びているのです。

アメリカ社会のこうした側面を理解し、その上で今おきている人種差別などに起因する暴動を見ていると、人種問題という以上に、社会のエスカレータに乗った人と、乗れない人との新たな対立項が見えてくるのです。

日本では警察と検察は縦社会の図式の典型といわれるほど、上下関係があり、かつ刑事事件などでは、この二つの組織が一体となって事件を処理しているといっても過言ではありません。
今回、ボルチモアの事件では、被疑者を死に至らしめた警察官の罪を検察官が問うにあたって、警察署が記者会見で検察官の行為を批判し、問題となった警察官の行動は妥当だったと強調した場面がありました。
メディアを前に、検察と警察が別々に会見し、異なる見解を述べることも、アメリカならではの「多様性」といっても過言ではないと思います。

今回の、ボルチモアでの事件は、日本社会の常識から距離をおいた報道の視点が求められる典型的な事例といえそうです。

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Yoji Yamakuse
山久瀬 洋二
1955年大分県生れ
大手出版社のニューヨーク駐在員を経て現地で起業。同地と東京を中心に100社近くに及ぶグローバル企業にて、国際環境での人事管理、人材開発などのコンサルティング活動を展開し、4000人以上のエグゼクティブへのコーチングを実施。著書は「日本人が誤解される100の言動」「言い返さない日本人」など多数。

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